普通の人は、幸福度を減点法ではかる。
幸せな理想の生活は、健康な体があり、素敵な伴侶がいて、経済的な問題もなく、親も元気で、子どももすくすく・・・
そこから足りないものを差し引いて「自分は不幸だ」と嘆くのは実のところ、それこそが不幸の素だ。
「ちゃんと治るから、お嫁にもいけるから大丈夫だよ」という主治医の気休めの言葉に
「お嫁どころじゃない、死なないかどうかの心配をしてくれ」と患者が思うのも至極当然である。
この本の著者は、そこを一足飛びに加点法にしてしまった。
というかそうせざるを得ない状況に陥った。
そして彼女は身体の痛みを抱えながら、なんと病院で恋までしてしまい、その恋のために一人暮らしをはじめてしまう。
加点式計測法のミラクルを目の当たりにした気分だ。
この先私が病気になっても、「どうして私だけが」とは絶対に思わないだろう。
(それにしてもNo麻酔の筋肉切り取り検査とか耐えられる自信はない)
人生は5つのボールをジャグリングしているようなものだ。その5つとは、仕事、家族、健康、友達、精神だ。
このうち、仕事のボールだけがゴムで出来ている。落としたとしてもちゃんとあなたのところに同じ強さで戻ってくる。
しかし他の4つは違う。これらはガラスのボールだ。落としてしまえば傷がつくかもしれないし、最悪割れてしまうかもしれない。決して元のままにはならないのだ。
これが現実だ。この現実に向き合って生きていかなくてはならない。
耐えられるものだけが、
働くことができる。
働いてる人は凄いのです。
□義務教育→サバイバル基礎コース
□生命保険→死亡保険
□ひきこもり→天才予備軍
□浮浪者→路上哲学者
□遺憾の意→ごめんなさい
もし人間万事塞翁が馬なのであれば、そして自分の内に燃える想いがあり、まだそれを目指せる環境にあるのであれば、たとえその時は明らかに負けが見えていたとしても、勇気をもってそこに向かって走っていくことは、美しい。
今までと同じことを続けていたらミュージシャンは少しづつ廃れていくだろうけど、視点を変えたら広がるはずなんです。音楽にはまだ夢がありますよ。
野崎:CDにするために80分で収める、という作り方はもういいかなと。昔から1曲完成するまでに、5曲くらいはボツにしてるんです。お蔵入りしている音源がたくさんあって、本当はそれも聴いてほしいし、応援してくれている人は聴きたいと思ってくれているだろうけど、アルバムにはコンセプトが必要で容量に限りもあるから諦めるしかなかった。でも今は自分ですぐに発信できる時代じゃないですか。これも、地震がなかったら考えなかったと思います。いつも通りリリースしていたら「次のアルバムはどうしようかな」って当たり前のように考えていただろうから。
―配信するということですか?
野崎:まだ分からないけど、そうなると思います。ずっと続いている流れを変えないと、聴いてくれる人も増えないだろうし、自分もつまらなくなっちゃう気がして。それにできれば個人として配信したいんです。レーベルにはそれぞれの色があるから、中にいるとできないことが出てくる可能性もあると思うんです。Jazztronikは野崎良太の中のひとつであって、現代音楽をやる僕もいればジャズをやる僕もいる。それをすべて同じレーベルの中でリリースするのは難しいだろうから。
―なるほど、今は個人で配信することも難しくないですしね。
野崎:だから恵まれてるんですよね、僕たちは。やろうと思ったらすぐに自分でできる時代になったんだから。CDが売れなくなったことを違法ダウンロードのせいにする人がいますけど、それは新しい魅力を持った音楽が作れていないことの言い訳ですよ。売れないことを流通システムやレコード会社のせいにする人に、アーティストを名乗る資格はないと思うんです。
基本構成はは起承転結、もしくは序破急だろ
それさえ守っていれば下手なものなんて出来上がらないからな
ピクサーの脚本家は
主人公が目的に向かう
↓
間違った方法でやったがために失敗する
↓
正しい方法を導き出す
↓
目的達成
と言う骨組みで話を作っているらしい。
こうした現象は「投資しすぎて、引くに引けなくなってしまった症候群」とでも言うべきでしょうか。
「何かを決める際には、過去にどれだけコストを考えたかを考えに入れるべきではない」— 多くの人はこの原則を知っています。
けれどもこの「投資しすぎて、引くに引けなくなってしまった症候群」はかなり強力なものなのです。
何事も長い間努力や苦労を重ねてくると、つい人はその事実を正当化したくなり、自分自身にも周りにも「これはなにか価値や意味があるはずだ」とか「だからここまで賭けたのだ」と言ってしまうようになってしまうようになってしまいます。
そう、サンマ一匹ごときに4時間並ぶ正当性なんてどこにもないのです。けれども、ここまで並んだのだからきっとうまいだろう、だとか適当な理由をつけて僕は自分を正当化していただけだったのです。
年長者にとっては、「若者の○○離れ」というふうに、若者が離れていっているものはわかるが、逆に若者が何に近付いているのかがわかりにくい時代になったのではないだろうか。